1990年、春風に花びらが舞う大阪の空の下で、世界が一堂に会した。正式名称は「国際花と緑の博覧会」、通称「花の万博」または「EXPO’90」。
このイベントは、単なる花の祭典ではなく、人間と自然の共生を問いかける壮大な実験場だった。
開催から35年が経過した今、振り返れば、バブル景気の頂点で繰り広げられたこの博覧会は、日本が持つ「花と緑」の文化を世界に発信し、都市の緑化運動に火をつけた象徴的な出来事だ。
来場者数は驚異の2,312万人を記録し、当時の日本経済の活気を象徴する一方で、環境意識の高まりを促す遺産を残した。
この記事では、この花の万博の全貌を、歴史的背景から現代への影響まで、紐解いていく。
誕生の軌跡:バブル期の野望と国際的認定
花の万博の着想は、1970年代後半に遡る。
当時、日本は高度経済成長の余韻に浸りながら、都市部のコンクリートジャングル化が進んでいた。
緑の不足が社会問題化する中、園芸業界は国際的な視野を広げようと動き出した。
1985年、日本造園建設業協会が国際園芸家協会(AIPH)に加盟したことが転機となる。
AIPHは1948年に欧州で設立された民間団体で、園芸技術の向上と生産者利益の促進を目的に、国際園芸博覧会を認定している。
花の万博は、このAIPHの最上位クラス「A1認定」(大規模国際博、会期3〜6ヶ月、面積50ヘクタール以上、10カ国以上参加)を獲得したアジア初のイベントとなった。
さらに、博覧会国際事務局(BIE)の「特別博」認定も受け、国際博覧会としての格式を備えた。政府の後押しも大きかった。
1980年代初頭の「鉄冷え」不況期に閣議了解された計画は、民間活力の導入を条件としていたが、バブル景気の到来で一転。
企業からの寄付金は国際博史上最高額を更新し、民間パビリオンが次々と建設された。
テーマは「自然と人間との共生」。
花と緑を通じて、21世紀の豊かな社会像を描くという壮大なビジョンだ。
開催地は大阪市鶴見区と守口市にまたがる「鶴見緑地」。
大阪都心から東へ約8kmのこの場所は、元々は淀川河川敷の埋め立て地で、万博を機に140ヘクタールの広大な公園として再生された。
総工費は約1,000億円規模。
バブル期の日本が、緑のインフラ投資にどれほど本気だったかを物語る数字だ。
華やかな幕開け:183日間の花と緑の饗宴
1990年3月31日、皇太子(現・上皇陛下)による開会宣言で幕が上がった。
翌4月1日から9月30日までの183日間、午前9時(開幕初期は9時30分)から午後10時半(同10時)まで、来場者を迎え入れた。
入場料は大人2,000円、子供1,000円と、当時の物価で手頃。ピーク時には1日20万人以上が押し寄せ、総来場者数は2,312万6,934人。
戦後日本のイベント史上、トップクラスの集客力だ。
交通網も充実し、Osaka Metro中央線「緑橋駅」や京阪本線「土居駅」からシャトルバスが運行され、大阪国際空港(現・関西国際空港の前身)からのアクセスもスムーズだった。
会場は「山のエリア」「海のエリア」「里のエリア」の3ゾーンに分かれ、自然の多様性を体現。
中央に広がる「いのちの海」(現在の大池)は、噴水ショーと花々が織りなす幻想的な景観で、訪れる者を魅了した。
国際庭園エリアでは、83カ国・地域が参加。
オランダのチューリップ畑を模した庭園や、イタリアのルネサンス風バラ園、タイの熱帯植物ゾーンなど、各国の園芸文化が競演した。
日本パビリオン「花の塔」は高さ70mのガラスドームで、季節の花を常時展示。
内部では、最新の水耕栽培技術や遺伝子組み換え花卉のデモンストレーションが行われ、未来の農業を予感させた。
民間企業の出展も目玉だった。資生堂の「花の香りラボ」では、アロマセラピーの先駆けとして花の精油を体験。
トヨタは「グリーン・モビリティ」ゾーンで、環境に優しい車両と緑の融合を提案した。
エンターテイメント面では、コンサートやパレードが連日。
開幕式はNHKで全国中継され、SMAP(当時は光GENJIの時代だが、若手アイドルブームのさなか)のパフォーマンスも話題に。
子供向けには、巨大な花の迷路やバードウォッチングコーナーが設けられ、ファミリー層の心を掴んだ。
夏場は猛暑対策としてミスト噴射器を導入し、快適性を高めた工夫も光る。
しかし、華やかな舞台裏には試練もあった。
1990年は台風の当たり年で、6個の上陸。
最大の被害は9月19日の台風19号で、強風によりテントが飛ばされ、入場者激減。
閉会直前の9月30日も台風20号の影響で暴風雨となったが、最終日には2,300万人突破のニュースが花を添えた。
運営側は迅速な復旧工事で対応し、来場者の安全を優先。
こうした自然との闘いが、テーマ「自然と人間の共生」を現実的に体現した形となった。
多様な展示とイノベーション:花から生まれた未来像
花の万博の真髄は、単なる美しさではなく、園芸技術のショーケースにあった。
AIPH認定のA1クラスらしく、展示面積は140ヘクタール。
花卉類だけで5,000種以上、樹木1万本以上が植栽された。
注目は「国際庭園」の多様性。各区画300〜2,000平方メートルで、参加国は自国の風土を反映。
フランスはヴェルサイユ宮殿風の噴水庭園を再現し、来場者にヨーロッパの古典美を伝えた。
一方、ブラジルはアマゾンの熱帯雨林を模したジャングルゾーンで、生物多様性の重要性を訴求。
こうした国際交流は、冷戦終結直前の世界情勢を背景に、平和のシンボルとしても機能した。
日本独自のイノベーションも満載だ。
「バイオテクノロジー館」では、品種改良の最新成果が披露され、病気に強い新種のバラや、夜光る花のプロトタイプが話題に。
環境テーマの「エコガーデン」では、都市緑化モデルとして屋上緑化システムを提案。
バブル期の企業ブームを反映し、NTTの「スマートガーデン」はセンサー技術で自動灌漑を実現。
食と緑の融合ゾーンでは、地元大阪の食文化を活かした「花と食のフェア」が開催され、桜餅や花入り寿司が飛ぶように売れた。
教育プログラムも充実し、学校団体向けのワークショップで、子供たちが種まき体験。
結果、万博終了後、全国の小中学校で園芸教育が普及したというデータもある。
経済効果は計り知れない。関連消費だけで約3,000億円、雇用創出は数万人規模。
バブル景気の象徴として、株高と連動した「万博バブル」が囁かれたほどだ。
一方で、批評家からは「商業主義が強すぎる」との声も。
確かに、民間パビリオンの多くが自社PRを優先したが、それが逆に多様な視点を提供した側面もある。
遺産と現代へのつながり:緑の都市遺産
閉会式は9月30日、雨の中でも感動的に締めくくられた。
セビリア万博(1992年)への旗授受式が行われ、次なる国際イベントへのバトンタッチ。
解体されたパビリオンは一部が再利用され、鶴見緑地は現在も大阪の憩いの場として存続。
万博跡地には「太陽の塔」(岡本太郎作、1970年大阪万博からの移設)がシンボル的に立ち、公園面積は260ヘクタールに拡大。
記念協会(公益財団法人国際花と緑の博覧会記念協会)が管理し、毎年「花博祭」を開催して記憶を継承している。
影響は大阪を超えて全国に波及した。
万博を機に、都市緑化法の改正が進み、1990年代の「緑のまちづくり」ブームを後押し。
園芸産業の輸出額は開催後10年で倍増し、海外市場開拓に寄与した。
アジア初のA1認定として、以降の国際園芸博(1999年昆明、2012年フェンローなど)のモデルケースとなった。
2027年の横浜国際園芸博(GREEN×EXPO 2027)も、この花の万博のDNAを継ぐ。
気候変動対策の文脈で、花の万博が提唱した「持続可能な緑化」は、今のSDGsに直結する。
振り返れば、花の万博はバブル期の華やかさと、環境危機の予感を同時に映し出した鏡だった。
2,300万人以上の来場者が持ち帰ったのは、花の美しさだけでなく、人間が自然とどう向き合うかの問い。
今日、都市部のヒートアイランド現象やメンタルヘルスの問題が深刻化する中、あの万博のメッセージはより鮮やかだ。
鶴見緑地を訪れれば、今も残る花壇が語りかける。
「花と緑は、未来への招待状」――1990年の春、それが世界に届けた希望の種は、きっと今も芽吹いている。

